Australia-Japan Research Project

オーストラリア戦争記念館の豪日研究プロジェクト
戦争の人間像
シオ・マダン

1944年初頭、フォン半島とラム渓谷における戦闘が、連合軍の勝利によって終了し、ニューギニアにおける戦争は新しい局面を迎えた。日本軍はシオから西へとマダンを目指して撤退を始めた。

海岸線伝いに撤退する日本軍の残存将兵たちは、125日に出発したオーストラリア軍による追撃をうけた。日本兵は病気と飢餓に悩まされ、多くの兵士が途中で落伍し死亡していった。オーストラリア軍には、追撃作戦に有能なパプア人で構成された中隊も含まれていたが、その進行は慎重で遅々としたものだった。さらに222日以降は、パプア人部隊が中心になって追撃作戦が実行された。オーストラリア軍は、すでに1月上旬にサイドルに上陸していたアメリカ軍が、日本軍の西への退却を阻止することを期待していた。しかし実際には、約8000人の日本兵がアメリカ軍陣地を迂回し、さらにマダン方面へ行進した。

一方、ラム渓谷でのオーストラリア軍との戦闘で生き残った日本兵は、フィニステル山脈を越えて、マダンを目指して退却を開始した。険しい山脈を越えての退却は、日本軍にとって厳しい行軍であった。それをオーストラリア軍が追撃し、彼らは413日にボガジムに到着した。日本軍はさらにマダンに向けて後退し、なおもオーストラリア軍が追跡した。オーストラリア軍は424日に、連合軍の空襲で破壊され、日本軍に放棄されたマダンに到着した。

追撃するオーストラリア軍側にはほとんど損害がなかった一方、敗退する日本軍は、オーストラリア軍による攻撃や、病気や飢餓によって、非常に多くの死亡者を出した。


Printed on 05/19/2024 04:24:57 AM